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ピアノ文化の歴史
〜雑誌月刊ピアノ広告より〜
欧州に追いつけ追い越せ!ピアノ文化の発展を支えたのは調律師の情熱だった!!
日本で造られたピアノが世界で認められるようになった裏側には調律師の活躍があった!?
いい調律師がいなくてはいい音は奏でられない。世界で活躍する日本人調律師が誕生するまでを紹介しよう。
■調律師は流行の最先端を行く!?
明治時代に西洋音楽が日本に入ってから、日本でもピアノを造り、欧米に認められるようになったが、昭和12年には約7,500台も生産できるようになった。ピアノが増えればメンテナンスを行う調律師が必要。しかし調律には高い技術がなくてはならない。昭和初期は調律師不足が深刻だった。
調律師になるには最低5年は修行が必要だが、ピアノが日本に入ってきた明治時代などは、ピアノを造る職人たちが調律もしていた。外国製のピアノの修理もできるような腕のある者が活躍していたのだ。
当時、ピアノは超高級品。お屋敷出入りのために一流の調律師はお洒落をし、山高帽に洋服姿、人力車に乗って出かけていた。つまり、 調律師は時代の先端を行っていたのだ。ところが新しい文化ゆえに玉石混淆、素人に音の良し悪しはわからないだろうと技術の低い者もいた。残念ながら今もそういう者がいるが・・・。
そこで調律師の信頼を高め、互いに技術を磨きあうために、昭和5年、現在の「社団法人日本ピアノ調律師協会」が設立されたのだ。
■世界で活躍する調律師の誕生
ピアノメーカーが発展していった同時期に、調律師も技術を高めていった。調律師協会の創設者のひとり杵淵直知は、日本人ではじめてスタインウェイに就職し、技術を習得。ノウハウを徹底的に学んだ杵淵は、「日本一のコンサートチューナー」と言われたが、日本のメーカーの弱点も見えてきたという。科学的分析だけでいいピアノができるわけではなく、長い時間をかけて育った文化的背景が深く豊かな音をつくることに気づいたのである。
昭和4年生まれの村上輝久は、イタリア人演奏家ミケランジェリに腕を見込まれ、専属調律師として世界ツアーに同行、4年間で11カ国の演奏会をまわった。日本人調律師が、ヨーロッパの演奏家にも認められた出来事だった。演奏家の生の声を聞き、調律に生かすという彼の仕事ぶりは、多くのアーティストに信頼された。彼の活躍によって、日本のメーカーはピアノ造りに有用な情報を多く得られた。・・・調律師の活躍があってこそ、日本のピアノ文化も発展したのである。そして、そういう調律師をつくるのが、西部ピアノの目標なのだ。





















